住友春翠が育んだ茶の湯文化と慶沢園

現在の長生庵広間

大阪芸術大学短期大学部客員教授
一般社団法人 日本庭園文化国際研究会

代表理事
塚本学院校友会常任理事

福原成雄

大阪・天王寺公園の一角に広がる慶沢園は、もとは住友家第15 代当主・住友友純、号を春翠と称した人物の本邸庭園として造営されました。近代大阪を代表する実業家である一方、春翠は美術や建築、庭園、茶の湯にも深い関心を寄せた文化人でした。慶沢園と園内の茶室には、春翠が育んだ美意識と、文化を後世へ伝えようとした精神が今も息づいています。

春翠は明治31年(1898)頃から茶臼山の地に本邸と庭園の整備を進め、「植治」7代目・小川治兵衛の手によって、林泉回遊式の庭園を完成させました。大きな池を中心に、築山や飛石、石橋、樹林を巧みに配し、園内を歩くにつれて景色が移り変わる構成は、都市の中にありながら深山幽谷を思わせます。大正4年(1915)、春翠が鰻谷本邸から茶臼山へ本邸を移した際、茶室「好日庵」も移築されました。好日庵は、裏千家の名席「今日庵」を写した二畳台目の小間を中心に、四畳半や八畳の広間を備えた茶室でした。侘びた草庵の趣を持ちながら、多くの客を迎える社交の場としての機能も備えており、近代数寄者であった春翠の茶の湯観をよく表しています。

好日庵へ至る露地も、茶会の重要な舞台でした。客は露地門をくぐり、小高い丘を上り、樹間から池の水面を眺めながら石組の延段を進みました。明るく開放的な庭園から、静寂に包まれた露地へと導く構成には、日常の世界を離れ、心を整えて茶室へ向かうという茶の湯の精神が表現されていました。

大正8年(1919)には、春翠の亡父を追善する茶会が好日庵で催され、高橋箒庵をはじめ、当時を代表する数寄者たちが招かれました。由緒ある茶道具や掛物を取り合わせ、庭園、露地、茶室、料理を一体として客をもてなすその茶会は、春翠の教養と美意識の結晶であったといえるでしょう。

鰻谷邸平面図(住友資料館蔵)に好日庵の位置を記す。
慶沢園に移築された「好日庵」と露地の様子。
 (大阪電気通信大学矢ケ崎教授:茶臼山本邸)
住友家茶臼山本邸(1915)配置図(住友資料館蔵)
住友家茶臼山本邸平面図(部分)(住友資料館蔵)

さらに大正9 年(1920 )、書院の北側に四畳半の茶室「知足斎」が新築されました。「足るを知る」という言葉を名に持つこの茶室は、好日庵が公式の茶会や社交の場であったのに対し、春翠が日々の稽古や親しい客との時間を過ごす、内向きで静かな空間でした。軒には、春翠の実兄・西園寺公望の筆による「知足」の扁額が掲げられていたと伝えられています。

大正14年(1925)、住友家が本邸を神戸・住吉へ移すことになり、茶臼山の邸宅と庭園は大阪市へ寄贈されました。茶室は解体され、その部材は幾度かの移転や戦災後の混乱を経ながら、関係者の手によって守り継がれました。

昭和35年(1960)、寄贈された茶室の解体材を用いて、慶沢園内に「長生庵」が建設されました。現在の長生庵は、八畳の広間、四畳半の書院付茶席、二畳台目の小間などで構成されています。かつての好日庵や知足斎の部材と意匠を受け継ぎながら、往時の茶の湯文化を一棟の建物に再構成した茶室です。

慶沢園という名称には、「慶び」や「恵み」を自らだけのものとせず、広く社会や後世へ及ぼしていくという意味が込められています。私邸として築かれた庭園が大阪市へ寄贈され、今日まで市民に親しまれていることは、まさにその精神の表れといえるでしょう。庭園を歩き、露地をたどり、茶室に身を置く。そこには、建築、庭園、茶道具、もてなしを一つの文化として捉えた住友春翠の世界観があります。慶沢園と長生庵は、近代大阪に花開いた茶の湯文化と、春翠が後世に託した美意識を今に伝える、貴重な文化遺産なのです。

2025年のリニューアルオープンを機に、私は慶沢園管理運営業務の有識者として、庭園の維持管理や運営に関する助言を担当させていただいております。歴史ある庭園の景観や樹木を守り育てることは、まさに春翠が遺した「恵みを後世へ及ぼす」精神を現代において実践することに他なりません。本学で培った知見や経験を活かし、

文化遺産の保存・継承という形で社会に貢献できることに大きなやりがいを感じております。 新たに生まれ変わった慶沢園が、皆様にとって心安らぐ学びと憩いの場となることを願っております。

現在の長生庵露地門から長生庵全景
大正時代の好日庵(AIで古写真を復元)
大正時代の泉軒(AIで古写真を復元)